| 1830 | 0歳 | 長州藩士・杉百合之助の次男として、長門国萩の松本村に生まれる。幼名は寅之助。のちに吉田家を継ぎ、吉田松陰と呼ばれるようになる。 |
| 1834 | 4歳 | 山鹿流兵学師範を務める叔父・吉田大助の仮養子となる。これにより幼い頃から兵学者として育てられる道が決まる。 |
| 1835 | 5歳 | 養父・吉田大助が急死したため、吉田家の家督を相続する。わずか5歳で長州藩の山鹿流兵学師範家の後継者となる。 |
| 1836 | 6歳 | 叔父・玉木文之進らから厳しい教育を受け、山鹿流兵学、漢学、儒学などを学ぶ。幼少期から藩の兵学師範になるための教育を受ける。 |
| 1840 | 10歳 | 萩藩校・明倫館で山鹿流兵学を講義する。少年ながら藩士を相手に兵学を教え、その早熟さが知られるようになる。 |
| 1842 | 12歳 | 長州藩主・毛利敬親の前で兵学を講じる。藩主から才能を評価され、兵学者としての地位を固めていく。 |
| 1845 | 15歳 | 日本沿岸に外国船が現れる状況を意識し、西洋の軍事力や海防への関心を強める。従来の山鹿流兵学だけでは不十分だと考えるようになる。 |
| 1848 | 18歳 | 明倫館で兵学師範としての活動を続けながら、長沼流兵学など他流派の軍学も学び、知識を広げる。 |
| 1850 | 20歳 | 九州遊学に出発。平戸で葉山佐内らから海外事情・西洋兵学に関する書物を学び、長崎では外国船や海外情勢への理解を深める。 |
| 1851 | 21歳 | 江戸へ遊学。佐久間象山、安積艮斎ら当代の知識人に学び、西洋兵学・砲術・儒学などを吸収する。 |
| 1851 | 21歳 | 宮部鼎蔵らと交流し、東北地方の海防状況を自分の目で見る計画を立てる。 |
| 1852 | 22歳 | 藩の正式な通行手形を待たずに江戸を出発し、東北地方を遊歴。水戸、会津、新潟、佐渡などを巡り、各地の海防や社会状況を視察する。 |
| 1852 | 22歳 | 無断出発を問題視され、長州藩から士籍・禄を失う処分を受ける。一方で父・杉百合之助の育み扱いとなり、引き続き遊学する道を得る。 |
| 1853 | 23歳 | ペリー艦隊が浦賀に来航。黒船を実際に見て、西洋の軍事技術と日本の海防力との差を強く認識する。 |
| 1853 | 23歳 | 佐久間象山から西洋兵学を学び、日本を守るには海外事情を直接知る必要があると考えるようになる。 |
| 1854 | 24歳 | ペリー艦隊が再来航すると、金子重之輔とともに下田へ向かい、米艦に乗り込んで海外渡航を試みる。 |
| 1854 | 24歳 | 密航の願いは拒否され、下田奉行所へ自首。江戸の伝馬町牢屋敷に収監された後、長州へ送還される。 |
| 1854 | 24歳 | 萩の野山獄に投獄される。獄中でも他の囚人に学問を教え、自らも多様な人物から知識を学ぶなど、教育者としての姿勢を強める。 |
| 1855 | 25歳 | 野山獄を出て杉家での幽閉生活に移る。自宅で家族や近隣の若者に講義を始め、教育活動を本格化する。 |
| 1856 | 26歳 | 杉家で孟子などを講じ、若者たちとの議論を重ねる。単なる知識の伝授ではなく、「学んだことを行動に移す」ことを重視する教育姿勢を固める。 |
| 1857 | 27歳 | 叔父・玉木文之進が開いていた「松下村塾」を事実上引き継ぎ、本格的に門下生を教育する。 |
| 1857 | 27歳 | 久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、伊藤博文ら後に幕末・明治維新で重要な役割を果たす若者たちが集まり、松下村塾が活発になる。 |
| 1858 | 28歳 | 日米修好通商条約が勅許なしに調印されたことや幕府の外交姿勢を批判。尊王攘夷・倒幕へ思想を急進させる。 |
| 1858 | 28歳 | 老中・間部詮勝の暗殺計画を企て、長州藩に武器の提供を求めるが受け入れられず、再び野山獄に投じられる。 |
| 1859 | 29歳 | 安政の大獄に関連して江戸へ送られる。幕府の取り調べで自らの思想や計画を率直に述べたことが重く受け止められる。 |
| 1859 | 29歳 | 10月27日(旧暦)、江戸・伝馬町牢屋敷で処刑される。満29歳。死後、松下村塾の門下生たちが倒幕・明治維新の中心人物となり、松陰の思想が大きな影響を残す。 |