| 1836 | 0歳 | 土佐国高知城下の郷士・坂本八平直足の次男として生まれる。坂本家は商業活動でも財を築いた比較的裕福な郷士の家だった。 |
| 1846 | 10歳 | 母・幸を亡くす。幼少期は姉たち、特に乙女から大きな影響を受けたとされる。 |
| 1848 | 12歳 | 高知城下の日根野弁治道場に入門し、小栗流和兵法を学び始める。剣術だけでなく、居合、槍、棒術など幅広い武芸を修める。 |
| 1850 | 14歳 | 土佐国内で武術修行を続ける。後に江戸へ剣術修行に出るための基礎を築く。 |
| 1853 | 17歳 | 小栗流和兵法の目録を授けられ、土佐藩の許可を得て江戸へ剣術修行に向かう。 |
| 1853 | 17歳 | 江戸の千葉定吉道場に入門し、北辰一刀流を学ぶ。江戸滞在中にペリー艦隊が来航し、土佐藩の品川警備にも動員される。 |
| 1853 | 17歳 | 黒船来航を目の当たりにし、剣術だけでは外国勢力に対抗できない現実を意識するようになる。佐久間象山の塾にも入門する。 |
| 1854 | 18歳 | 土佐へ帰国。絵師・河田小龍から海外事情、貿易、海運の重要性について話を聞き、世界へ視野を広げる。 |
| 1856 | 20歳 | 再び江戸へ剣術修行に出る。千葉道場で修行を続けながら、江戸の政治・思想状況に触れる。 |
| 1858 | 22歳 | 千葉定吉から北辰一刀流の長刀兵法目録を授けられる。剣術修行を終え、土佐へ帰国する。 |
| 1861 | 25歳 | 武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟。尊王攘夷運動に関わるようになる。 |
| 1861 | 25歳 | 武市の使者として長州へ赴き、久坂玄瑞と会談。藩単位ではなく日本全体を考える必要性を強く意識するようになる。 |
| 1862 | 26歳 | 3月、土佐藩を脱藩。藩の身分や許可に縛られず、日本各地で政治活動を行う道を選ぶ。 |
| 1862 | 26歳 | 江戸で幕臣・勝海舟を訪ねる。当初は攘夷思想を抱いていたが、勝から世界情勢や海軍の必要性を聞き、その考えに強く感銘を受ける。 |
| 1862 | 26歳 | 勝海舟の門下となり、開国・海軍建設という現実的な国家構想へ大きく考えを転換する。 |
| 1863 | 27歳 | 勝海舟の働きかけで脱藩の罪を許される。神戸海軍操練所の設立準備に参加し、海軍・航海・貿易を学ぶ。 |
| 1863 | 27歳 | 神戸海軍塾の塾頭格として各藩出身の若者をまとめる。身分や藩を超えた人材ネットワークを作っていく。 |
| 1864 | 28歳 | 神戸海軍操練所で活動を続けるが、幕府内で勝海舟が失脚。操練所も存続が難しくなり、龍馬らは薩摩藩の保護を受ける。 |
| 1865 | 29歳 | 長崎で仲間たちと「亀山社中」を結成。日本初期の商社的組織ともいわれ、海運・貿易を行いながら政治活動を支える。 |
| 1865 | 29歳 | 薩摩藩名義を利用して長州藩の武器購入を仲介するなど、対立していた薩摩と長州を実務面から結びつける。 |
| 1866 | 30歳 | 1月、京都で薩摩藩と長州藩の提携を仲介し、薩長同盟成立に大きく関わる。 |
| 1866 | 30歳 | 薩長同盟成立直後、京都・寺田屋で幕府方に襲撃され負傷する。妻・お龍の機転で危機を逃れる。 |
| 1866 | 30歳 | 傷の療養を兼ね、お龍とともに薩摩へ旅行。霧島などを訪れ、後世「日本初の新婚旅行」と紹介されることが多い。 |
| 1866 | 30歳 | 第二次長州征討では長州側を支援し、亀山社中の船を使って海上戦にも関わる。 |
| 1867 | 31歳 | 亀山社中を土佐藩の支援を受ける「海援隊」へ発展させる。貿易、海運、人材育成、政治活動を組み合わせた組織を目指す。 |
| 1867 | 31歳 | 海援隊の船「いろは丸」が紀州藩船と衝突・沈没。龍馬は紀州藩との賠償交渉を行い、海運・国際法的な考え方を用いて交渉を進める。 |
| 1867 | 31歳 | 船中で後藤象二郎らと新しい政治体制について議論し、「船中八策」と呼ばれる政治構想につながる考えを示す。議会政治、官制改革、海軍整備などを構想する。 |
| 1867 | 31歳 | 土佐藩を通じて徳川慶喜に政権返上を促す動きに関与。10月、慶喜が大政奉還を行い、約260年続いた徳川幕府の政治体制が大きく転換する。 |
| 1867 | 31歳 | 大政奉還後も「新政府綱領八策」などを通じて、新しい国家体制を構想する。幕府を倒すだけでなく、その後の国家設計へ関心を移す。 |
| 1867 | 31歳 | 11月15日(旧暦)、京都・近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃される。龍馬はその場で死亡。満31歳だった。 |