| 1823 | 0歳 | 江戸本所亀沢町で幕臣・勝小吉の長男として生まれる。幼名・通称は麟太郎。のちに勝安芳、号を海舟と名乗る。 |
| 1838 | 15歳 | 父・勝小吉から家督を相続する。幕臣として生きていく立場になる一方、家は裕福ではなく、若い頃は厳しい生活を送る。 |
| 1840 | 17歳 | 剣客・島田虎之助の道場に内弟子として入り、住み込みで剣術修行を行う。禅にも触れ、精神修養を重ねる。 |
| 1842 | 19歳 | 蘭学を本格的に学び始める。当時まだ希少だった西洋の軍事・科学知識を自力で吸収していく。 |
| 1844 | 21歳 | 佐久間象山の塾に入門。西洋兵学、砲術、海防論などを学び、日本を取り巻く国際情勢への理解を深める。 |
| 1845 | 22歳 | 民と結婚。幕臣としての生活と並行しながら蘭学研究を続ける。 |
| 1848 | 25歳 | 高価で入手困難だった蘭和辞書「ヅーフ・ハルマ」を自ら筆写し、二部を完成させる。一部を売却して生活費や研究資金に充てた。 |
| 1850 | 27歳 | 江戸・赤坂で蘭学塾「氷解塾」を開く。蘭学・兵学を教えながら人材育成を始める。 |
| 1853 | 30歳 | ペリー艦隊が来航。幕府が広く海防策を募集すると「海防意見書」を提出する。 |
| 1853 | 30歳 | 意見書で軍艦建造、海軍育成、身分にとらわれない人材登用などを提案。これが幕府首脳の目に留まり、海軍行政へ登用される契機となる。 |
| 1855 | 32歳 | 蕃書翻訳関係の仕事を命じられ、幕府の実務に本格的に参加する。 |
| 1855 | 32歳 | 長崎海軍伝習所へ生徒監として派遣される。オランダ海軍士官から航海術、測量、砲術、造船など近代海軍の知識を学ぶ。 |
| 1856 | 33歳 | 長崎で海軍伝習を続け、講武所砲術師範役を命じられる。幕府海軍の人材育成に深く関わる。 |
| 1858 | 35歳 | 咸臨丸で九州方面を巡航。薩摩で島津斉彬らと交流し、海軍や開国をめぐる構想を深める。 |
| 1859 | 36歳 | 築地の軍艦操練所教授方頭取となり、幕府の海軍教育を主導する立場になる。 |
| 1860 | 37歳 | 咸臨丸を指揮して太平洋を横断し、アメリカ・サンフランシスコへ渡る。日本人主体による本格的な太平洋横断として大きな意味を持った。 |
| 1860 | 37歳 | アメリカ社会を実際に見て、身分制度に縛られない社会、人材登用、産業力などを観察。日本の政治・軍事改革の必要性を強く認識する。 |
| 1860 | 37歳 | 帰国後も幕府の海軍行政に携わる。自身が設計に関わった神奈川台場も完成する。 |
| 1861 | 38歳 | 講武所砲術師範役を務め、幕臣に西洋式軍事技術を教える。 |
| 1862 | 39歳 | 軍艦操練所頭取、続いて軍艦奉行並に昇進する。幕府海軍の中枢に入る。 |
| 1862 | 39歳 | 坂本龍馬らを門下に迎える。龍馬に世界情勢や海軍の必要性を説き、攘夷から開国・海軍建設へ思想を転換させる大きな影響を与える。 |
| 1863 | 40歳 | 山内容堂と会談し、龍馬ら土佐脱藩者の赦免に尽力する。 |
| 1863 | 40歳 | 将軍・徳川家茂の摂海視察に同行し、神戸に海軍操練所を設置する許可を得る。 |
| 1863 | 40歳 | 幕臣だけでなく諸藩・脱藩者も含めて人材を集め、日本全体の海軍を担う人材を育成しようとする。 |
| 1864 | 41歳 | 神戸海軍操練所の運営を本格化。坂本龍馬らを連れて九州方面にも赴き、下関戦争をめぐる情勢に対応する。 |
| 1864 | 41歳 | 軍艦奉行に昇進し、安房守となる。しかし幕府内から、操練所が反幕府的な志士の温床になっていると警戒される。 |
| 1864 | 41歳 | 11月、軍艦奉行を罷免され、謹慎・閉門を命じられる。神戸海軍操練所も翌年廃止される。 |
| 1866 | 43歳 | 軍艦奉行に復帰する。幕府と薩摩・長州などの有力藩の間に立って調停を行う役割を担う。 |
| 1866 | 43歳 | 第二次長州征討の停止交渉のため広島・宮島方面へ赴き、長州藩との停戦交渉に関わる。 |
| 1867 | 44歳 | 海軍伝習掛などを務める。徳川幕府の体制が急速に崩れていく中で、内戦を避ける道を模索する。 |
| 1868 | 45歳 | 鳥羽・伏見の戦い後、幕府側の軍事責任者として陸軍総裁に就任。新政府軍が江戸へ進軍する状況で和平交渉を主導する。 |
| 1868 | 45歳 | 新政府軍参謀・西郷隆盛と会談。江戸城総攻撃を回避する条件をまとめ、江戸城無血開城を実現する。 |
| 1868 | 45歳 | 大規模な市街戦を避け、江戸の住民や都市機能を戦火から守る。幕末史における海舟最大の功績として知られる。 |
| 1868 | 45歳 | 徳川家が移された静岡へ移住し、旧幕臣や徳川家の処遇に尽力する。 |
| 1869 | 46歳 | 明治政府から外務大丞、兵部大丞などへの就任を命じられるが、辞退・免職を繰り返す。旧幕臣でありながら新政府との橋渡しを行う。 |
| 1872 | 49歳 | 海軍大輔に任官。東京・赤坂へ戻り、明治政府の海軍行政に関与する。 |
| 1873 | 50歳 | 参議兼海軍卿に就任。幕府海軍育成の経験を、新政府の海軍整備にも生かす立場となる。 |
| 1873 | 50歳 | 鹿児島へ赴き、島津久光と西郷隆盛の対立を調停するなど、維新後も旧幕府・薩摩・新政府の人脈を利用した調整役を務める。 |
| 1874 | 51歳 | 海軍卿など政府の職を辞する意向を示し、第一線の政治から距離を置き始める。 |
| 1875 | 52歳 | 元老院議官に任命されるが、ほどなく辞表を提出する。政府高官としてよりも、独立した立場から政治を見る姿勢を強める。 |
| 1877 | 54歳 | 西南戦争で西郷隆盛が死去。海舟は西郷を高く評価し、その名誉回復に長く取り組むようになる。 |
| 1884 | 61歳 | 吉井友実らとともに西郷隆盛の名誉回復運動を進め、遺族への支援にも尽力する。 |
| 1887 | 64歳 | 伯爵を授けられ華族となる。伊藤博文へ政治・外交に関する意見書を提出するなど、政府に対する提言を続ける。 |
| 1888 | 65歳 | 枢密顧問官に就任。明治国家の重要政策について意見を述べる立場となる。 |
| 1890 | 67歳 | 晩年は赤坂氷川の邸宅で多くの政治家・旧幕臣・文化人と交流し、幕末の経験や人物評を語る。その談話は後に「氷川清話」などとしてまとめられる。 |
| 1891 | 68歳 | 幕末・維新に関する史料整理や著述を続け、旧幕府側の記録を後世へ残すことにも力を注ぐ。 |
| 1896 | 73歳 | 老衰を理由に枢密院へ辞表を提出する。高齢になっても政治や外交への関心を持ち続ける。 |
| 1898 | 75歳 | 長年働きかけてきた結果、徳川慶喜が明治天皇へ拝謁する機会が実現。旧幕府と明治政府の歴史的和解を象徴する出来事となる。 |
| 1899 | 76歳 | 1月19日、東京・赤坂の自邸で死去。76歳。幕末の幕臣でありながら、明治政府成立後まで生き、旧幕府と新政府双方をつなぐ人物として生涯を終える。 |